
中身は大体こんなカンジ。
①共通した一冊の本を読んで来てそれについて語り合う
②気になる資料を持ち寄り語り合う
③web上の気になるサイトについて語り合う
④その他
今月の会では板倉聖宣の「人間の法則と社会の法則」について語りあった。
仮説実験授業の生みの親、板倉聖宣その人の文章である。
わたしが持ち込んだ資料なのだけど
「おや、この話、こんな処に書かれていたのね」と、長く離れていた大切な友人に会ったかのように感激して準備したものだった。
私がとても懐かしかったのはこの部分…
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「人間の法則」と「社会の法則」の違う一例
人間の法則と社会の法則とはどうして違うのか。
それは人間が多くなると、そこに個人とは違う統計的な法則が問題になってくるからである。
一つ例を挙げてみよう。
ある出版社があって、二冊の小説を出版したところ、流行作家であるAさんの本はとても沢山売れたが、新人作家のBさんの本は全く売れなかったとする。Aさんの本は5万部売れたのに、Bさんの本は5千部も売れない。どちらも定価千円とすると、ふつうは印税率10%としてAさんに500万円支払うことになるが、Bさんには50万円も払うことができない。
こんなとき、どう考えたらよいだろうか。
出版社の社長としてはその新人作家に同情して、よけいに印税を払ってやりたいところであろう。その出版社としても「すぐれた作品だ」と思ったから出版したという事であれば、その作家をなんとか応援してやりたいところである。そんな場合、会社の資金が潤沢であれば、何とかBさんに経済的な応援をしてやれるかも知れないが、そうでなければAさんに支払う分をBさんに回すより他ない。それが人情というものであるかもしれない。
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まだ続くのだけど少しここで止めてみたい。
この文章はもう25年くらい前に書かれた文章で、それを読んだ頃の私は小説家の夢も持ち始めていた頃だった。そして自然と「そりゃ当然そうだ。その新人作家は貧乏してるに決まっているから援助して育ててあげるのが出版社の仕事でもあるだろう」という思ったものだった。
作家=貧乏
貧乏しててもいいもの持っている
金持ち=遊び人
次第に落ちぶれていく
そんな大岡越前的な単純発想していた頃なのだろう。そして「貧乏は清くて美しい」というような水戸黄門的な発想でもあったのだろう。
あー、懐かしい。
さて話は「じっさいそんな実験をしてみるとどうなるか」という流れとなる。
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それなら実際そうしたらどうなるだろうか。
その出版社はBさんから感謝される事になるかもしれないが、Aさんからは嫌われることになる。そしてAさんは次の作品をその出版社から出そうとはしなくなるだろう。
Aさんは売れっ子作家なのだから、「ほかの出版社だって出してくれるところがいくらもある」ということになるからである。
Aさんは売れっ子作家なのだから、「ほかの出版社だって出してくれるところがいくらもある」ということになるからである。
そうするとその出版社はBさんのように売れない作家ばかりを抱えて、売れる作家からは見放されることになる。そうすれば出版する本がどれもうれなくて、出版社として成り立たなくることにもなろう。
個人会社の社長だって「社会の法則」を無視できない
このことは、その出版社の経営が苦しい場合には尚更のこと、非人情的に通用する。経営が苦しいからといってAさんの印税を滞らせれば、Aさんはもう書いてくれないかもしれない。とすれば、売れないBさんの印税を全く支払わなくてもAさんの印税を先に支払うのが得策ということになる。会社自身の経営が苦しいようであれば、売れない作家のBさんの生活にも同情できるし、Aさんのように羽振りがいいのも気になってくるかもしれない。それでもその出版社が経営成績を上げるためには、売れっ子のAさんのほうをさらに優遇するのが出版社としてとる道ということになるであろう。
中略
社長といえども、その人情のおもむくままに経営することはできないのである。
「自分の人情のままにできない」ことは非常と考えて嘆くか、「これは社会の法則なのだから当然だ」と考えるかで、生き方が大きく変わってくるであろう。
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貧乏は清く美しいという見方からすると非情な文章に読めてしまうかもしれない。
しかしこの文章を読んでから私は変わった。
社会の法則とは何かを丁寧に探る事が幸せへ近づく事なのだと、今では当たり前のように思っている。

この中の
「最後の奴隷制としての多数決原理」
「正義と民主主義の問題としての「いじめ」」
「企業の精神と近代科学の精神」
についてもガツンと殴られた。
特に「最後の奴隷制としての多数決原理」には読後、呆然としてしまった。
以上