ラベル 科学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 科学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年9月26日

広瀬隆in沖縄 20011-2-26

広瀬隆が沖縄に来ているというので、突然那覇まで飛んで行きました。

著書「東京に原発を!」に刺激を受けて以来、広瀬さんの著作物はほぼ読んでいた時期があります。
その本は、最近復刻されたのか、amazonでも注文できます。

 原発問題に関心のある人は手にするとよい本です…厚いのですけど基本的な内容はシンプルです。
「原発がそんなに安全だと本気で言うのなら東京に原発をつくりましょう。設計はこんなカンジで、立地場所はどこそこで…」

広瀬さんは激しい方で、原発反対派の中でも急先鋒というカンジの位置にいます。
 ※一番よかったのは「億万長者はハリウッドを殺す」と「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」です…映画ファンには刺激に満ち満ちた内容だと思います

会場は那覇のパレット市民劇場です。
沖縄でどの位の人たちが集まるのだろうか?
 会場八割かなと予想していたら、満杯で、はじめは立ち見でした。何人なんだろう、400人くらいだろうか?

途中から前があいたので、一番近い席で聞いていたのですけど、広瀬さんは強い口調で行政当局や東電の体質を強く避難しつつ

○EUでは10~20ベクレル以上の食品を制限という状況が、日本では500以上を制限、となっている。つまり499ベクレルの食品はノーチェックでスーパーに並んでいる。それは沖縄でも同じ

○土壌の汚染などに振り回されていてはいけない…とにかく子ども達の「内部被曝(食べ物や空気から放射線が入ること)」をどう防ぐかに全力を注がなくてはいけない

○チェルノブイリの例から、これから数年後には数十万のがん患者が出てくる。それは病院の中でしか分からない…表の数としてはどこも統計を公表しないだろう

という話をしていました。

広瀬さんの話を100%そのまま受け取る気はない人も、大抵はその迫力にビックリしてしまい「これは大変な事になる」と思ってしまうのだろうな、という事が気になります。

「大変だ!」と慌ててしまうと冷静な動きからも戦略からも遠くなるからです。

 ちなみに、わたしは広瀬さんの話をそのまま受け取る事はありません。
かといって福島原発二十キロ圏内の様子を目にした人間の一人として、「大したことはない」なんて発想は微塵もありません。

こういう時にも自分でしっかり予想を立てて問いかけるという事が大事です。
広瀬さんの側の出す例えば「数字」が正しいのか、それは誇張だという側が正しいのか、自分の「予想」を持って問いかける、ということです。
インターネットで情報を探すのもよい、本を手にするのもよい。
いろいろな形で問いかける事ができます。

時間のスケールを広く取れば世界は原発から離れていく方向に向かうのは確実です。
どのようにそれを実現していくのか、摩擦を減らしつつも安全な道へ確実に歩みをすすめる知恵がとても大切にされていると思います。
          以上

2011年1月9日

世界から争いは無くなるのか? 無くなるとしたいつ? カール・ポパー

私は政治的にすごく穏やかな人間だと思います。
学生運動も経験なければ、選挙運動で誰かに加担する事もありません。
しかし、政治などどうでもよいと考えているわけではなく、社会が良くなっていく事そのものに深く関心を持っています…

ところで、年末からカール・ポパーを追いかけています。
 ポパーは1902年、つまり第一次世界大戦後のオーストリア・ウィーンに生まれました。
第一次世界大戦が1914年に始まります。つまり彼は、人類が初めて体験した世界大戦の嵐の中で過ごし、戦後は、失業者があふれた街、彼の言葉で語れば「飢餓が日常化し、内乱が風土病と化した、この上なくみじめな国」で暮らしてきたのです。
 彼の思想・哲学はそういう土壌で花を開きました。
 さらに、その戦後の混乱の中、隣国ドイツでヒトラーが勢力を拡大し、オーストリアもナチス・ドイツに併合されていく事になります。
話はわたしの大好きな映画の話になりますけど、最近ブログで紹介した「サウンド・オブ・ミュージック」はその混乱の渦中にいたトラップ一家の物語なのです。

彼はユダヤ人です。
ナチスドイツの魔の手を逃れてオーストラリアに飛び、のちにイギリスに渡ります。彼の思想・哲学はそこでさらに深みを増していきました。

つまり彼は戦争と平和の中で深く思想して来た人物なのです。

さて、彼の自伝「果てしなき探求 知的自伝」岩波現代文庫 にこういう迫力ある言葉があります。【 】の中にどういう言葉が入るか、予想してみませんか。

紛争の無い人間社会は【           】
                               同書下巻p26



彼はこう言っています。
「紛争の無い人間社会はありえない」

「早く世の中から争いごとがなくなりますように…」
「全ての争いの無い社会がおとずれますように…」
そういう祈りのような言葉をテレビや本で見聞きしてきましたから、私は、ここまできっぱり語るポパーに驚いてしまいました。彼のような人こそ、平和を希求してやまない人物だろうと思ってもいたからです。
彼はさらに続けます。
「そういう社会は友人の社会でなく、蟻の社会であろう」

蟻は決められたルールに従って秩序よく社会生活を送っています。蟻のような社会を幸せだと呼ぶ人はほとんどいないでしょう。
彼はどうしてこうまできっぱりと「紛争のない人間社会はありえない」と言い切っているのでしょう?

その理由としてあげていることを私の言葉を少し加えて説明してみます。

彼は紛争のない人間社会はありえない、という理由を軽いジャブとして
①きわめて善良な人びとでさえ、きわめて不完全な状態でいるのだから
②いつもの時代になろうとも、われわれはその<社会の中の物事を全て知っている>という状態には成り得ない…そのため、誤りをおかしてしまうのだから
こう書いています。
そして「しかしそれは本質的な理由ではない。それよりももっと重要なのは…」と進め、その本質的な理由は
「解決しえない諸々の価値の衝突が人間社会には常に存在するからだ」と結論づけているのです。

いつの時代になっても例えば「わたしはあの人が好き、なのにあの人は別な人が好き。どうしたら解決すのだろう?」というような問題はたくさん起こっていくのです。
「挑戦する事が大切だ」と考える人達も、「日々安泰で波風たたない人生こそ善し」と考える人達もいます。そういう対立は社会の中で起こってしまうのが必然なのだというのですね。キリスト教至上主義もイスラム教至上主義もあるのです。
わたしは科学が進んでいくなかで、宗教も淘汰されてそういう対立は無くなると予想しているのですけど、たとえ宗教上の対立が無くなっても、別な価値観による対立は存在します。
ポパーは、突き詰めて考えた結果、人間に争いはつきものだと考えるの至ったのですね。

そして面白い事に、彼は
「もしもたとえば、紛争の無い社会が達成されたとしたら?」
という事にも言及しています。

こうです。
「たとえそのような社会が達成できたとしても、その達成によって消滅させられてしまうであろうような最も重要な人間的価値が存在する。それゆえ、われわれはそのような社会をもたらそうという企てを思いとどまるべきである。われわれは価値または原理の衝突の実例に出会う。この実例は諸価値、諸原理の衝突が価値あるものでありえ、実際、開かれた社会にとっても不可欠である事を示している」

すごい話ですよね。
よくわからないという人の為にわたしの解釈を加えます。
ポパーは「紛争のない社会にしようなんて事をしてはいけない。それは、最も重要な人間的価値を奪ってしまう事になるのだ」というのですね。
人間はある意味、いろいろな困難さえ強引に突破して生きていく生物です。
ミミズには人間のようなチャレンジ精神はありません。蟻にもありません。だから彼らはほとんど今の状態から大きな進化をせずに社会構造を維持しているのです。
人間の社会はどんどん進化しています。
国がくっつくことも無くなる事もある。地球から飛び出て火星にまで行こうとさえしているのです。「紛争」さえも起こしてしまうくらいのパワーでいろいろなものごとを突破して生きて行こうとするのが我々人間なのだ。失敗もしてしまうのだ。だから失敗さえも許容するシステム・争いも許容する社会の中で生きていくべきだ」というのですね。そしてそれは、彼のいう「開かれた社会」つまり、縛られて暮らすのではなく、それぞれの価値の中で自由に暮らしていける社会の為には必要な事なのだ、というわけです。

では、紛争をそのままにしておけというのか?
それについてポパーはこう語っています。
「われわれは確かに紛争を減少させるべきである」
紛争、争いは少なくしていく努力をしよう。しかし間違ってはいけない、紛争は完全に無くなることはないし、そうしてしまったら、人間のとても重要な価値を無くしてしまう事になるのだ。

このポパーの議論には反論もあるかもしれません。
彼の「反証可能性を持って科学と呼ぶのだ(樹楽庵補:実験によって正しいのか間違っているのかはっきりするような判断基準が示されていないものは科学ではない。真偽怪しい議論だ)」という言葉を借りれば「ポパーさん、そんな事言ったって、それが正しいのか間違っているのか反論できるような判断基準がないじゃない。私はそう思う、私はそう思わない、というような議論なのだから、真偽なんてわからないよ」と言えばよいのです。

確かにそうです。
しかし、強烈なポパーという思想家の言葉に、また歯車が一つ進んだ気がしています。

2011年1月8日

ランディ・パウシュ「最後の授業」その2

ランディ・パウシュの「最後の授業」を最後まで観ました。

どうしてこんなにいい動画に今まで気がつかなかったのだろう、と悔やむのではなく、今観る事ができてホントに良かった、と感じています。
私が簡単にベスト・セラー本を手にするようなタイプの人物なら、きっと二三年前に、本を手に入れて感動していたに違いないでしょう。
けれど、本でなく、動画を直接観ることができたのは、とても幸いだったと思う。活字の良さは十分に知っているけれど、活字からランディ・パウシュの講演の感覚・感情といったものを受け取るのは難しい。
たとえは飛躍してしまうかもしれないけれど、曲なしで歌詩を読んで感じる感覚と、曲の流れの中で詩を味わうこととの違いに近いものがあるとおもうから。
本はたしかに素晴らしい。
何度も味わえて、線が引けて、どこでも取り出して、自由な姿勢で読めるから。
でも、本を読んだ人たちにもぜひランディの動画を観てもらいたいと思う。

死を前にして、残された人たちに笑いの中から勇気を伝える事ができるというのは、とにかく大した人物だ。

来週、たのしい授業・仮説実験授業の仲間たちとのサークルがあるのだけど、この動画をもっていって、皆に観てもらいたいと思っている。授業で子どもたちにも使える気がするから。

ランディは最初の方で、ここでは宗教の話はしない、ガンの話もしない…と語っています。すべて観て感じているのだけど、彼はきっと無神論者に違いない。表面上はプロテスタントとかカソリックとかいろいろあるのかもしれなけれど、夢の話、たのしく生きるという話を突き詰めて考える事ができるのは、原子論者に違いないと思うから。
仲間がここにもいた。

2010年12月30日

科学は暗闇を照らす一本のろうそく つづき

前回、科学的な思考の重要性について書くと、幾つかのメールが届きました。
まず書いておかなくてはいけないのは、
科学は暗闇を照らす一本のろうそく
という言葉についてです。


これは私の言葉ではなく、敬愛する「カール・セーガン」の言葉です。
私の大好きな「科学と悪霊を語る」新潮社 にある言葉です。
文庫本として、『人はなぜエセ科学に騙されるのか』というタイトルで再編されましたから、ほしい方はそれを手に入れるといいと思います。
科学的な思考・判断について興味のある方達には、おすすめです。


 さて、ある方がこういうメールをくれました。


 科学では全ては解決できない。
 幽霊はいないかもしれないが、いるかもしれない・・・どちらの可能性もあるではないか。
 だから、ろうそくでそういう世界を照らそうとするのは意味が無いことではないか。


 という内容です。


 そのことについて、科学的な反論をするのではなく、私の注目しているある人物が、「科学的な見方・考え方入門」という自費出版の著書の中でこういう事を書いています。
「どちらの可能性もあるのだから、はっきりさせなくてよいではないか、という考えに対して、どう捉えればよいか」という内容です。


 今回は、それを読んでみて頂けませんか。

-----


 それが真実か偽りか等どうでもよいではないか、という考え方について

これから<科学的な見方や考え方>の話に入っていく前に、まず整理しておかなくてはいけない事があります。
それは「あえて真実か偽りかという事をハッキリさせなくてもいいではないか」という考え方についてです。
別な言葉でいうと、「人間関係を大切にするためには、そういうことをあまり真剣に考えず<イロイロな考えがあるのだ>という事でいいではないか」というような考え方です。
皆さんはどう思いますか?

科学的に怪しい話を前にしても「まあそういう事もあるかもしれないね」という事で適当に話を合わせていた方が<人間的に成長している人の態度だ=大人だ>と言われることがあります。
たとえば「この部屋に霊が見える」という人がいた時に、「科学的には霊の存在はあり得ないのだけどな・・・何かそう見えてしまうような<光の動き>とかがあるのかもしれないね」と語るより、「私には見えないけど、見える人には見えるみたいだよね」という話をした方が“大人”であるし、“人間関係まるく収まる”というような考え方です。
その事について、少しかかせてください。

まず、何をもって「大人の態度だ」と言えるのでしょうか? 
「いろいろな人の考えを受け入れる」人が大人で、「ヘンなものはヘンだ」と言ってしまう人は子どもなのでしょうか?
なるほど、そういう考え方は成り立ちそうな気もします。
ではその考えをすすめて「キリスト教徒はイスラム教徒を受け入れないのだから子どもだ」と言ってよいのか? 
これはかなり怪しいですね。


また、幽霊やUFOの事については「いろいろな考え方を受け入れる事が大人の態度だ」と考えている人でも、“自分の恋人は自分の事もあいつの事も好きだ”なんていうことになると、途端にいろいろな考え方を受け入れなくなってしまいます。

よく考えてみると、人間は<自分がとても大切にしている事>については、「どちらも受け入れる」という態度をとれないのです…自分や身近な人の命の問題に関わってくると、「許容する」なんて話は頭から消えてしまうのが普通なのです。

例えばいつも買い物をしているスーパーの店長さんが訪ねてきて「今まであなたの家族が食べてきたお肉なんだけど、危険な保存料が使われていて発ガン性が高いっていう話があるんです。でも“あまり心配はない”っていう両方の説がありますから気にしないで下さいね」なんて言われて、「どちらの考えもあるんですね・・・よかった、はい了解」なんて穏やかな顔なんてできません。

医者から「おたくの子どもの治療で、間違って違う薬を使い続けていました・・・でも薬なんていうものは偶然に効いちゃうこともあるかもしれないから勘弁してください」なんて言われても許容できない。
自分にとって大切なことについて「まあ、どっちの考えもあるよね」、などという立場には立てない、つまり「いろいろな考え方を認める事ができるのが大人だ」という考え方は怪しいのです。
もしも「どちらでもよいではないか」という考え方があるとしたら、それは<大人か子どもか> という問題ではなくて、その人にとってはある意味「どちらでもよい問題/いいかげんでよい問題」だと考えてみると事も大事だと思います。

あるいはもう一つ。
霊的・スピリチャル的な見方を前にして、いわゆる大人の態度、つまり「あるかもしれないね、ないかもしれないね」という態度でいられる人がいるとしたら、実はその人自身が「そういう霊的な現象もあるのだ」と考えている人なのだという事です。

科学は「霊」の存在を認めません。しかし理科の教師や科学を教えている人たちの中に、霊の存在を否定しない人はたくさんいます。「はじめに」で書いた、九州の理科の教師達が集まった研究会で私が話したのもその事でした。
わたし自身が直接その人から聞いた話なのですけど、「数年前その人が、ある洞窟の石を持って帰って来たら、数日後に頭が痛くなりはじめた。心配して家族に相談し、家族がその石を返しに行くと、数日後に治った」というのです。石に“タタリ”があるのだと信じているわけです。
頭痛はいろいろな原因で起こります。持ってきてはいけないと思って不安になっていたとしたら、それで頭痛が起こる事だってある。そういう可能性はどこかに置き去りにして、頭痛の原因を「石のタタリ」だと思い込んでしまったりする。数日後には自然に治る頭痛はありますし、きっと薬も飲んだかもしれませんから、その効果もあるかもしれないのに、それを「石を返したから」だと考えてしまったりする。
いずれにしても、科学を教えているはずの人が、“石のタタリがあるかもしれない”というように考えているのです。つまりその人間的に大人だという事ではなく、その人自身の科学的な見方考え方がかなり怪しいのです。

はじめの問いかけに戻りましょう。
<人間関係を優先するためには、いろいろな考えを受け入れる事が大切だ>と考える人はたくさんいます。しかし目の前の相手を大切な人だと考えていたら、たとえばその人が怪しい宗教にたくさんのお金をつぎ込もうとしている時に「わたしには理解できないけど、そういう考えもあるよね」という態度をとらずに、「それはやめた方がいい」と真剣に言ってあげたい。
<人間関係を大切にしている>というつもりでいろいろな事を許容しているうちに、相手がどんどんその怪しい宗教にのめり込んで抜き差しならない状況になってしまうかもしれないのです。それは、結果として<大切な相手と真剣につきあっていなかった>ということになりかねないのです。
もちろん人間関係は複雑ですから、いろいろな状況が考えられます。しかし<相反する考えのどちらも受け入れる>という態度は必ずしも大人の態度だというわけではないという事、逆に「その事、その相手を大切にしていない可能性がある」という事も、考えておく必要があるのではないかと思います。

ではどうしたらよいのでしょう?
それは簡単なことではありません。相手が宗教や霊的な世界にのめり込んでいるとしたら、それなりの深い意味があるのでしょう。心に深い苦しみを背負っているのかもしれません。病気に苦しんでいるのかもしれません。子どもの頃に負った深い心のキズが、大人になっても消えずに苦しみ続け、前世や霊的な癒しの世界に入り込んだ人もいるでしょう。あるいは、たまたま宗教を持っている家庭に生まれ、自然にその世界に入り込んだという人もいるでしょう…それは長い歴史をもったものですから簡単にどうこうできるものでもありません。
読み込み中...

簡単なものではないにしても、不可能だという事ではありません。まずあなたが、しっかりと科学的な見方・考え方を身につけてみる事です。そのきっかけに、この本がなれたら幸いです。

霊的な、スピリチャル的な世界にのめり込んでいる人たちの中にも、実は「本当にあの世からメッセージが届くのだろうか? 生まれ変わりが有るのだろうか?」と疑問をもっている人がいます。そして自分自身で変わり始めるきっかけとして、この本を手にしてくれる人たちもいます。
科学的な見方や考え方に立つことができないという人も、この中に記された科学的な見方・考え方を知っていると、いつか何かのきっかけで変わる事ができるのかもしれません。あるいは、科学の見方・考え方と宗教の世界の考え方の両方を知っているおかげで、危機的な状況に陥らずにすむという事もあるかもしれません。

この本を手に取ったあなたが、まず丁寧に読み進めてみていただけるとうれしいです。