学生運動も経験なければ、選挙運動で誰かに加担する事もありません。
しかし、政治などどうでもよいと考えているわけではなく、社会が良くなっていく事そのものに深く関心を持っています…
ところで、年末からカール・ポパーを追いかけています。
ポパーは1902年、つまり第一次世界大戦後のオーストリア・ウィーンに生まれました。
第一次世界大戦が1914年に始まります。つまり彼は、人類が初めて体験した世界大戦の嵐の中で過ごし、戦後は、失業者があふれた街、彼の言葉で語れば「飢餓が日常化し、内乱が風土病と化した、この上なくみじめな国」で暮らしてきたのです。
彼の思想・哲学はそういう土壌で花を開きました。
さらに、その戦後の混乱の中、隣国ドイツでヒトラーが勢力を拡大し、オーストリアもナチス・ドイツに併合されていく事になります。
話はわたしの大好きな映画の話になりますけど、最近ブログで紹介した「サウンド・オブ・ミュージック」はその混乱の渦中にいたトラップ一家の物語なのです。
彼はユダヤ人です。
ナチスドイツの魔の手を逃れてオーストラリアに飛び、のちにイギリスに渡ります。彼の思想・哲学はそこでさらに深みを増していきました。
つまり彼は戦争と平和の中で深く思想して来た人物なのです。
さて、彼の自伝「果てしなき探求 知的自伝」岩波現代文庫 にこういう迫力ある言葉があります。【 】の中にどういう言葉が入るか、予想してみませんか。
紛争の無い人間社会は【 】
同書下巻p26彼はこう言っています。
「紛争の無い人間社会はありえない」
「早く世の中から争いごとがなくなりますように…」
「全ての争いの無い社会がおとずれますように…」
そういう祈りのような言葉をテレビや本で見聞きしてきましたから、私は、ここまできっぱり語るポパーに驚いてしまいました。彼のような人こそ、平和を希求してやまない人物だろうと思ってもいたからです。
彼はさらに続けます。
「そういう社会は友人の社会でなく、蟻の社会であろう」
蟻は決められたルールに従って秩序よく社会生活を送っています。蟻のような社会を幸せだと呼ぶ人はほとんどいないでしょう。
彼はどうしてこうまできっぱりと「紛争のない人間社会はありえない」と言い切っているのでしょう?
その理由としてあげていることを私の言葉を少し加えて説明してみます。
彼は紛争のない人間社会はありえない、という理由を軽いジャブとして
①きわめて善良な人びとでさえ、きわめて不完全な状態でいるのだから
②いつもの時代になろうとも、われわれはその<社会の中の物事を全て知っている>という状態には成り得ない…そのため、誤りをおかしてしまうのだから
こう書いています。
そして「しかしそれは本質的な理由ではない。それよりももっと重要なのは…」と進め、その本質的な理由は
「解決しえない諸々の価値の衝突が人間社会には常に存在するからだ」と結論づけているのです。
いつの時代になっても例えば「わたしはあの人が好き、なのにあの人は別な人が好き。どうしたら解決すのだろう?」というような問題はたくさん起こっていくのです。
「挑戦する事が大切だ」と考える人達も、「日々安泰で波風たたない人生こそ善し」と考える人達もいます。そういう対立は社会の中で起こってしまうのが必然なのだというのですね。キリスト教至上主義もイスラム教至上主義もあるのです。
わたしは科学が進んでいくなかで、宗教も淘汰されてそういう対立は無くなると予想しているのですけど、たとえ宗教上の対立が無くなっても、別な価値観による対立は存在します。
ポパーは、突き詰めて考えた結果、人間に争いはつきものだと考えるの至ったのですね。
そして面白い事に、彼は
「もしもたとえば、紛争の無い社会が達成されたとしたら?」
という事にも言及しています。
こうです。
「たとえそのような社会が達成できたとしても、その達成によって消滅させられてしまうであろうような最も重要な人間的価値が存在する。それゆえ、われわれはそのような社会をもたらそうという企てを思いとどまるべきである。われわれは価値または原理の衝突の実例に出会う。この実例は諸価値、諸原理の衝突が価値あるものでありえ、実際、開かれた社会にとっても不可欠である事を示している」
すごい話ですよね。
よくわからないという人の為にわたしの解釈を加えます。
ポパーは「紛争のない社会にしようなんて事をしてはいけない。それは、最も重要な人間的価値を奪ってしまう事になるのだ」というのですね。
人間はある意味、いろいろな困難さえ強引に突破して生きていく生物です。
ミミズには人間のようなチャレンジ精神はありません。蟻にもありません。だから彼らはほとんど今の状態から大きな進化をせずに社会構造を維持しているのです。
人間の社会はどんどん進化しています。
国がくっつくことも無くなる事もある。地球から飛び出て火星にまで行こうとさえしているのです。「紛争」さえも起こしてしまうくらいのパワーでいろいろなものごとを突破して生きて行こうとするのが我々人間なのだ。失敗もしてしまうのだ。だから失敗さえも許容するシステム・争いも許容する社会の中で生きていくべきだ」というのですね。そしてそれは、彼のいう「開かれた社会」つまり、縛られて暮らすのではなく、それぞれの価値の中で自由に暮らしていける社会の為には必要な事なのだ、というわけです。
では、紛争をそのままにしておけというのか?
それについてポパーはこう語っています。
「われわれは確かに紛争を減少させるべきである」
紛争、争いは少なくしていく努力をしよう。しかし間違ってはいけない、紛争は完全に無くなることはないし、そうしてしまったら、人間のとても重要な価値を無くしてしまう事になるのだ。
このポパーの議論には反論もあるかもしれません。
彼の「反証可能性を持って科学と呼ぶのだ(樹楽庵補:実験によって正しいのか間違っているのかはっきりするような判断基準が示されていないものは科学ではない。真偽怪しい議論だ)」という言葉を借りれば「ポパーさん、そんな事言ったって、それが正しいのか間違っているのか反論できるような判断基準がないじゃない。私はそう思う、私はそう思わない、というような議論なのだから、真偽なんてわからないよ」と言えばよいのです。
確かにそうです。
しかし、強烈なポパーという思想家の言葉に、また歯車が一つ進んだ気がしています。