2008年6月23日

ひさびさレポート
わたしが使わない日本語-その1-
    樹楽庵2008-6-23


はじめに
ずいぶん久しぶりのレポートになります。
何人かの人たちから「新作レポートがよみたい」というmailが来ていて、それはとてもうれしいことだったんですけど、なかなか書く姿勢が整わずにいました(^^ゞ
書きたいことはずいぶんたくさんあるんですけどね・・・
まあ書かずに過ごしていた体もしだいになれていくかもしれませんから、とりあえず書き始めてみます。

言葉には思考の歴史がつづられる・・・
言葉には、それを使っていた人たちの思考がダイレクトに刻まれています。つまり日本語には日本人の思考の歴史が残されています。それは重要な歴史的なDATAです。
ステキな日本語はたくさんあります。
「のどか」
「日々是好日」
「どっちに転んでもシメタ」・・・
その逆に、疑問を感じざるを得ない言葉もあります。
そういううちの幾つかについては、息子たちに「父さんはこういう言葉は嫌いなんだよ・・・できたらきみ達も使わないでくれるとうれしいな」と伝えた事がありますけど、文字にするのは今回が初めてです。なので、息子たちにもこのレポートを読んでもらおうと思います。
といっても、みんなに賛成してもらおうという気で書いているわけではありません。ただ、こういう事を考えている人もいたんだな、ってくらいで心のどこかに置いていてもらえるといいなと思っています。


わたしが使わない日本語その1「ないち/内地」と「本土/ほんど」
本州の事を「内地」と呼ぶ人たちがわたしの周りにはたくさんいます。「内地に行ってきたの」とか「内地の人ですか?」とか・・・
内地に対応する言葉は「外地」です。
よその県を「内地」という言葉を使うという事は、自分たちのすんでいる場所を「外地」だと定義している事になります。
それとくっついているのが「本土」という言葉です。
「本土から来たの?」とか普通にいう人たちが多いわけです。
Web上で最も利用されている辞書ウィキペディアを開いて「内地」に関わる項目を拾ってみると
「(占領地や海外領土などの)『外地』に対して、その国の本国の部分」
とあります。また
「本国(内地)と住民構成や行政などが異なる植民地を区別する際の用いられ方」
ともあります。
こういう言葉はいずれも戦争や侵略と関係して使われ出した言葉です。
「本土」についても、ウィキペディアには
「本州に居住する住人の中には本州のみを「本土」と誤って呼ぶ者もいるので注意が必要である」という注意書きがあります。

沖縄は「1972年に本土復帰した」という事が教科書にも載っています。つまり沖縄はそれまでアメリカの法律が適用されていたりするなど、日本という国とは異質な要素も入っていたけれど、その「本土」への復帰を果たしたということになるわけです。
なのに、まだ自分たちは本土ではない、という言葉を使っています。
たくさんの人たちが間違って使えば、その言葉が正しくなってしまいます。早めになおしたい言葉の一つです。
ちなみにわたしは本土とか内地という言葉をつかわず「よその県」という言葉一本です(^^


わたしが使わない日本語その2「英語で自分を紹介するときの姓名を逆にする」
たとえば「タロウ コイケ」
これはもうすごく悲しい習慣だなという気がしてなりません。わたしは右翼的な人間ではありませんし、右翼の宣伝カーなど来たら「うるさいから自分たちの仲間内でやってよ」くらいにしか思わないのですけど、どうして右翼は靖国とかいう事では騒いでいるのに、こういう悲しい文化についてはさわがないんだろうかって思います。でも騒がれたらうるさくてまた困るんだけどね(^^ゞ
右翼は好きではないけれど、日本という国は好きで、その歴史にも好きなところはたくさんあります。日本人はファミリーを尊ぶ民族です。ですから、その人がどういう人のファミリーなのかという事は大切なファクターです。アメリカ人はファミリーがどうなのかというより、まずその人個人が重大事です。それはそれで両方いいなと思います。おかしいのは、私たち日本人が、自分たちの文化を突然捨てて、アメリカ文化で名前をひっくり返してしまう事です。これはわたしにとって驚異の世界です。アメリカに数回行っているのですけど、その中で公的な仕事もしたりする奇怪もあって、多くの人を相手に自己紹介をする事もありましたけど、わたしはそのまま「姓→名」で通します。そして、そのあとに「We Japanese say Family name first. because We Japanese importantly think about family first. It’s our custom. 私たち日本人は<名字>を先に言います。その人がどういうファミリーの一員なのかという事をまず大事に考える文化だからです」
というように加えています。

みんなニコニコしながらきいてくれます。

ところでうちの息子は、志望する大学の入学条件に「英検二級」というのがあったので、英検に挑戦したんですけど、一次試験に無事合格して、二次試験の日が来ました。二次試験ではまず自己紹介があります。
彼はわたしがいうように「姓→名」で自己紹介してみたそうです。
とても大事な試験だから、落ちるとやばいのにね。彼はひるまずに試してみたんですね。結果、合格していました。
もっと日本の文化に自信をもって行きましょう(^^

中国や韓国の人たちだって、かつて日本のニュースでその国の人の名前を日本読みして、たとえば「はくしょうにち」みたいに言っているのはけしからんといって、ちゃんと「パク ジョンイル」と自分の国の読み方に変えさせたくらいです。どうして日本人はこうなっちゃうんだろう。
わたしは空手をずいぶん長くやっていて、アメリカから来る人たちに教えたりする事も時々あります。彼らはすごく日本の文化を大切にしてくれていて、こちらが直す事一つひとつに「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げてくれます。正座してのお辞儀もすごく丁寧です。
きっと、かつての日本人は、彼たちが空手を学ぶように、すべて宝物のように英米の文化を大切にしてきたのでしょう。それだから自分の名前ですらも、ひっくり返して英米調にしたのでしょうね。それはそれでわかります。
けれど、ここらで見直してよい習慣の一つだと心から思います。


わたしが使わない日本語その3「障害者」
これはもうわたしの嫌いな日本語No1くらいの位置を占めています。最近、某省のお役人さんが75才以上の方達を「後期高齢者」と名付けてしまい、おじいちゃんおばあちゃんたちから「なんて言葉を使うんだ、けしからん」としかられて問題になったのですけど、この障害者という言葉はそれ以上に偏った言葉だと思います。
障害という言葉はあまりにもマイナスのイメージが強すぎる。
わたしは息子に「<ハンディーを持った人>って言葉がいいよ」って話しています。
以前、空手で鎖骨を折ったとき、一カ月くらいわたしも普通の暮らしができませんでした。少し笑うだけでもとんでもない痛みです(^^ゞ
その状況を「今、右肩にハンディがあってさ・・・」と話すのと「今、右肩のあたりに障害があってさ」って話すのとではすごい違いです。
言葉はできればあまりどくどくしくない方がよいなと思います。
自分自身かがそれを「障害だ」と感じているならよいではないか、という意見があります。それはそうかなと一歩譲って考えてみましょう。
日本語の構造で考えてみると「○○+者」となると、その人の全体を表した事になってしまいます。つまり「障害者」という言葉は、その人全体を表してしまうわけです。ハンディ、障害をもった人でも他の部分ではずっと優れた面がある事は例をあげなくても簡単にわかると思います。なのにどうして、その人全体を「障害」と説明してしまうのでしょう。わたしには使えない言葉です。
 以上