2012年1月7日

デジタル化された「ホン」と現物としての「本」 一考

連日、家の中の書籍を裁断、スキャニングしている日々です。


資料も加えたら、もう二千冊は超しただろうと思います。


デジタル化すると抜群によくなるのは検索処理です。


「あの本はどこにいったかな?」とか
「あの記事はどの雑誌にあったかな?」というような場合、目的のものにたどりつくまでの時間が、わたしの場合で数万倍くらい速くなる気がします。


書籍などのデジタル化は、「データを自ら吸い込む」という意味で「自炊/じすい」と呼ぶのですけど、その自炊仲間も増えて来て、いろいろ情報のやりとりなどもしています。


ところで、そういう仲間たちと語り合っていると、自炊についての考え方が、周りの人たちと私とで基本的に違うところがある事に気づきます・・・
それはもう一年くらい前からなのですけど。


多くの人たちは、自炊する事そのものが楽しくてやっているようなのですけど、わたしは「しかたなく」「本当はやりたくないのだけど」やっている、のです。


おそらく、個人としての自炊量としては、かなり上を行っていて、このままのペースで行けば、個人の蔵書を1万~2万冊くらいデジタル化する事になると思うのですけど、本当は本を切りたくないのです。


切った本は処分しているのですけど、処分せず、本当はそのまま置いておきたいのです。


心を鬼にして本を切って処分する、それが私の自炊です。


何度も途中で、挫折しようとするので、その気持ちを抑えるために「探せない資料はゴミ以下だ!」というラベルを作っていろいろなところにはってあるのです。


労働としてつらいからではありません。
気持ち的につらいのです。


もしも、わたしの検索能力が高く、本や資料の整理能力も高ければ、さらに、こんなにもたくさんの本を所有するような生き方をしていなければ、本は本として、手に取りながら読みたいのです。


デジタル化されていても紙に書かれていても、どちらも同じ文字や画像といった「情報」ではないか!


という考え方があります。
その考えが私には理解できません。


本はやっぱり手にとって、肌で感じながら読みたいのです。


大好きな人がいて、ホンモノも写真もどちらも同じ顔をしているのだから同じでしょう、などと言ったらほとんどの人は反論するでしょう。


私はその意味で、デジタル化されたホンも、紙としての本も同じだよという人に反論したいのです。


好きな人と手をつなぎながら散歩するのも、写真をポケットに入れて散歩するのも同じだよ、なんて考えられません。


本格的にデジタル化の作業を始めて10ヶ月ほどたちました。
そんな中で、
①資料は、しかたなくデジタル化。
②文学・写真集・プレゼントしてもらったものは「現物」のまま保管
③あまりにも貴重で、長期に保存したいものは②であってもデジタル化
というルールができてきました。


皆さんは、どうしているのでしょう・・・