2010年12月30日

科学は暗闇を照らす一本のろうそく つづき

前回、科学的な思考の重要性について書くと、幾つかのメールが届きました。
まず書いておかなくてはいけないのは、
科学は暗闇を照らす一本のろうそく
という言葉についてです。


これは私の言葉ではなく、敬愛する「カール・セーガン」の言葉です。
私の大好きな「科学と悪霊を語る」新潮社 にある言葉です。
文庫本として、『人はなぜエセ科学に騙されるのか』というタイトルで再編されましたから、ほしい方はそれを手に入れるといいと思います。
科学的な思考・判断について興味のある方達には、おすすめです。


 さて、ある方がこういうメールをくれました。


 科学では全ては解決できない。
 幽霊はいないかもしれないが、いるかもしれない・・・どちらの可能性もあるではないか。
 だから、ろうそくでそういう世界を照らそうとするのは意味が無いことではないか。


 という内容です。


 そのことについて、科学的な反論をするのではなく、私の注目しているある人物が、「科学的な見方・考え方入門」という自費出版の著書の中でこういう事を書いています。
「どちらの可能性もあるのだから、はっきりさせなくてよいではないか、という考えに対して、どう捉えればよいか」という内容です。


 今回は、それを読んでみて頂けませんか。

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 それが真実か偽りか等どうでもよいではないか、という考え方について

これから<科学的な見方や考え方>の話に入っていく前に、まず整理しておかなくてはいけない事があります。
それは「あえて真実か偽りかという事をハッキリさせなくてもいいではないか」という考え方についてです。
別な言葉でいうと、「人間関係を大切にするためには、そういうことをあまり真剣に考えず<イロイロな考えがあるのだ>という事でいいではないか」というような考え方です。
皆さんはどう思いますか?

科学的に怪しい話を前にしても「まあそういう事もあるかもしれないね」という事で適当に話を合わせていた方が<人間的に成長している人の態度だ=大人だ>と言われることがあります。
たとえば「この部屋に霊が見える」という人がいた時に、「科学的には霊の存在はあり得ないのだけどな・・・何かそう見えてしまうような<光の動き>とかがあるのかもしれないね」と語るより、「私には見えないけど、見える人には見えるみたいだよね」という話をした方が“大人”であるし、“人間関係まるく収まる”というような考え方です。
その事について、少しかかせてください。

まず、何をもって「大人の態度だ」と言えるのでしょうか? 
「いろいろな人の考えを受け入れる」人が大人で、「ヘンなものはヘンだ」と言ってしまう人は子どもなのでしょうか?
なるほど、そういう考え方は成り立ちそうな気もします。
ではその考えをすすめて「キリスト教徒はイスラム教徒を受け入れないのだから子どもだ」と言ってよいのか? 
これはかなり怪しいですね。


また、幽霊やUFOの事については「いろいろな考え方を受け入れる事が大人の態度だ」と考えている人でも、“自分の恋人は自分の事もあいつの事も好きだ”なんていうことになると、途端にいろいろな考え方を受け入れなくなってしまいます。

よく考えてみると、人間は<自分がとても大切にしている事>については、「どちらも受け入れる」という態度をとれないのです…自分や身近な人の命の問題に関わってくると、「許容する」なんて話は頭から消えてしまうのが普通なのです。

例えばいつも買い物をしているスーパーの店長さんが訪ねてきて「今まであなたの家族が食べてきたお肉なんだけど、危険な保存料が使われていて発ガン性が高いっていう話があるんです。でも“あまり心配はない”っていう両方の説がありますから気にしないで下さいね」なんて言われて、「どちらの考えもあるんですね・・・よかった、はい了解」なんて穏やかな顔なんてできません。

医者から「おたくの子どもの治療で、間違って違う薬を使い続けていました・・・でも薬なんていうものは偶然に効いちゃうこともあるかもしれないから勘弁してください」なんて言われても許容できない。
自分にとって大切なことについて「まあ、どっちの考えもあるよね」、などという立場には立てない、つまり「いろいろな考え方を認める事ができるのが大人だ」という考え方は怪しいのです。
もしも「どちらでもよいではないか」という考え方があるとしたら、それは<大人か子どもか> という問題ではなくて、その人にとってはある意味「どちらでもよい問題/いいかげんでよい問題」だと考えてみると事も大事だと思います。

あるいはもう一つ。
霊的・スピリチャル的な見方を前にして、いわゆる大人の態度、つまり「あるかもしれないね、ないかもしれないね」という態度でいられる人がいるとしたら、実はその人自身が「そういう霊的な現象もあるのだ」と考えている人なのだという事です。

科学は「霊」の存在を認めません。しかし理科の教師や科学を教えている人たちの中に、霊の存在を否定しない人はたくさんいます。「はじめに」で書いた、九州の理科の教師達が集まった研究会で私が話したのもその事でした。
わたし自身が直接その人から聞いた話なのですけど、「数年前その人が、ある洞窟の石を持って帰って来たら、数日後に頭が痛くなりはじめた。心配して家族に相談し、家族がその石を返しに行くと、数日後に治った」というのです。石に“タタリ”があるのだと信じているわけです。
頭痛はいろいろな原因で起こります。持ってきてはいけないと思って不安になっていたとしたら、それで頭痛が起こる事だってある。そういう可能性はどこかに置き去りにして、頭痛の原因を「石のタタリ」だと思い込んでしまったりする。数日後には自然に治る頭痛はありますし、きっと薬も飲んだかもしれませんから、その効果もあるかもしれないのに、それを「石を返したから」だと考えてしまったりする。
いずれにしても、科学を教えているはずの人が、“石のタタリがあるかもしれない”というように考えているのです。つまりその人間的に大人だという事ではなく、その人自身の科学的な見方考え方がかなり怪しいのです。

はじめの問いかけに戻りましょう。
<人間関係を優先するためには、いろいろな考えを受け入れる事が大切だ>と考える人はたくさんいます。しかし目の前の相手を大切な人だと考えていたら、たとえばその人が怪しい宗教にたくさんのお金をつぎ込もうとしている時に「わたしには理解できないけど、そういう考えもあるよね」という態度をとらずに、「それはやめた方がいい」と真剣に言ってあげたい。
<人間関係を大切にしている>というつもりでいろいろな事を許容しているうちに、相手がどんどんその怪しい宗教にのめり込んで抜き差しならない状況になってしまうかもしれないのです。それは、結果として<大切な相手と真剣につきあっていなかった>ということになりかねないのです。
もちろん人間関係は複雑ですから、いろいろな状況が考えられます。しかし<相反する考えのどちらも受け入れる>という態度は必ずしも大人の態度だというわけではないという事、逆に「その事、その相手を大切にしていない可能性がある」という事も、考えておく必要があるのではないかと思います。

ではどうしたらよいのでしょう?
それは簡単なことではありません。相手が宗教や霊的な世界にのめり込んでいるとしたら、それなりの深い意味があるのでしょう。心に深い苦しみを背負っているのかもしれません。病気に苦しんでいるのかもしれません。子どもの頃に負った深い心のキズが、大人になっても消えずに苦しみ続け、前世や霊的な癒しの世界に入り込んだ人もいるでしょう。あるいは、たまたま宗教を持っている家庭に生まれ、自然にその世界に入り込んだという人もいるでしょう…それは長い歴史をもったものですから簡単にどうこうできるものでもありません。
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簡単なものではないにしても、不可能だという事ではありません。まずあなたが、しっかりと科学的な見方・考え方を身につけてみる事です。そのきっかけに、この本がなれたら幸いです。

霊的な、スピリチャル的な世界にのめり込んでいる人たちの中にも、実は「本当にあの世からメッセージが届くのだろうか? 生まれ変わりが有るのだろうか?」と疑問をもっている人がいます。そして自分自身で変わり始めるきっかけとして、この本を手にしてくれる人たちもいます。
科学的な見方や考え方に立つことができないという人も、この中に記された科学的な見方・考え方を知っていると、いつか何かのきっかけで変わる事ができるのかもしれません。あるいは、科学の見方・考え方と宗教の世界の考え方の両方を知っているおかげで、危機的な状況に陥らずにすむという事もあるかもしれません。

この本を手に取ったあなたが、まず丁寧に読み進めてみていただけるとうれしいです。