2011年9月10日

仮説実験授業の目的

仮説実験授業研究会ニュースの2011-7号に
板倉さんの講演記録が載っています。

相変わらず迫力ある話をしてくれています。

タイトルは 
「主体的な人間をつくる」-それが仮説実験授業の一番のねらい
です。
実は、このタイトルに思うことがあるのですけど、それは後半にまとめます。








少し転記してみます。

---A----

本当に優等生的教育というのは,僕のまわりにも皆さんのまわりにもたくさんありますよ。いろんなところでそれがマイナスになっていることに,日本人がもっと早く気がつかなきゃいけない。
「私は医学部に行く気はなかったけども,成績がよかったから,医学部に行かなきゃ損だと思って,医学部に行った」
なんていう,バカなお利口さんがいますからね。
そういう風土を作っちゃったのは誰なんだと。
 今回の地震のことでも,「優等生たちがとんでもない間違いをしていた」という証明ができれば,そういう考え方に勢いがつくかもしれない。
  仮説実験授業研究会ニュースの2011-7号2-3p




---B----

 僕にとっては、仮説実験授業は「主体的人間をつくる」ということが一番のねらいだった。
 主体的人間とはどういうことかというと,「上の命令で動くんじゃなくて,自分自身の考えで動く」ということだね。
 そういうことができる人間が,いざとなったときに一番力を発揮できるんですよ。上の人がやれと言わないからやらない。やるなと言われたからやらない- 仮説の人はそうじゃない。そういう主体的人間をつくることが決定的に重要だということは,こういう事件があるとかなりわかりますね。
 それで,いろいろな抵抗があったりして,そういう抵抗があった経験を超えてくると,一回り人間がでかくなりますからね。そういう経験をできるだけ生かしたい。 
    仮説実験授業研究会ニュースの2011-7号5p


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わたしは、自分の思考形成の中でたくさんの事を板倉聖宣から学んで来ました。
板倉先生の「主体的人間の形成」という本も読みましたし、それに関わる講演記録も随分読みました。
ですからあえて書きたいのですけど、板倉聖宣が
「主体的人間の形成が仮説実験授業の目的だ」-B-
と語ったのだから
「仮説実験授業の目的は<主体的人間の形成だ>」
とイコールで考える人が仮説実験授業研究会の中にもたくさん出てくるのかな・・・

というところが気になります。

そうやって、板倉先生がいうのだから、とイコールで結びつけてしまう人はつまり-A-の「優等生・・・仮説実験授業優等生」の心配もあるのだ、という事を心の隅に少しだけでも残しておく事が必要ではないのかと思うのです。

a)わたしは子ども達と仲良くなるために仮説実験授業をやった・・・私にとって仮説実験授業の一番の目的は「子ども達と仲良くなることなんだ」という主体的な人間。

b)わたしは科学の魅力を伝えたくて仮説実験授業をやっている・・・私にとって仮説実験授業の一番の目的は「科学の魅力を伝えることである」という主体的な人間。
そして

c)わたしは、主体的な人間を育てるために仮説実験授業をやっている・・・私にとっての一番の目的は「主体的人間を育てる事である」という人間。

そういう考え方が重要なのだと私は理解しています。

そして、実は c) を目的にして仮説実験授業を始めた人は驚くほど少ないだろう、という気がします。


実はこうやって久しぶりに仮説実験授業の事を書き始めたのは、はじめに触れておいたように、タイトルにあります・・・



はじめ、このタイトルを目にしたときに、
「板倉聖宣はこういう言い方をするわけはない・・・ヘンだな?」

と感じたのです。

それはつまり、今書いてきたように、板倉聖宣がいうから、
「仮説実験授業の目的は主体的な人間の形成なのだ」
と思ってしまう人が出てきてしまうからです。
板倉先生はそういう言い方はかなり気を使って避けるだろう、と思うのです。

そうしてよく読んで、ホッとしました。
板倉先生はちゃんと
「ボクにとっての仮説実験授業の目的は・・・」
と語っているんですね。
再度-B-を載せてみます。


---B----

 僕にとっては、仮説実験授業は「主体的人間をつくる」ということが一番のねらいだった。
 主体的人間とはどういうことかというと,「上の命令で動くんじゃなくて,自分自身の考えで動く」ということだね。
 そういうことができる人間が,いざとなったときに一番力を発揮できるんですよ。上の人がやれと言わないからやらない。やるなと言われたからやらない- 仮説の人はそうじゃない。そういう主体的人間をつくることが決定的に重要だということは,こういう事件があるとかなりわかりますね。
 それで,いろいろな抵抗があったりして,そういう抵抗があった経験を超えてくると,一回り人間がでかくなりますからね。そういう経験をできるだけ生かしたい。 
    仮説実験授業研究会ニュースの2011-7号5p


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仮説実験授業をうみ出した板倉聖宣の意図はそうだったのです。
しかし、科学というものは、それをうみ出した人の意図を超えていく事がしばしばです。

そしてその中でまたすばらしい発見も行われるのです。

そんな事を考えています。

「わたしにとっての」なのか「仮説実験授業にとっての」なのか、
そんな、少しの言葉を細かく言わなくてもいいでしょう、という人がいるかもしれません・・・
しかし、それこそ、私にとっては、この違いはかなり大きなものなのです。
タイトルと板倉先生本人が語った事とは、とても大きな違いがあると、私は考えています。 以上